VRChat原住民の文化は一般人に破壊されないし、そもそも一般人はVRChatなんてやらない。

2021/11/7

僕は2020年の8月ごろから「VR原住民」とか「VRChat原住民」(※)とかいう言葉をつかいつつ、2020年とか2021年現在、VRChatに入り浸って生活している人をいろいろと考えてきていた。

僕はたびたび、一般人の流入がVRC原住民や、VRCに限らないVRユーザとの間でどのような軋轢を生じ得るかを考えてきて、Twitter上でボヤいていた。そんな中、Facebookがメタバースを表明したこともあり、ニッソちゃん氏が「現在のVRは企業の参入により必ず破壊される」という記事を示しているし、それにこたえる形で、アシュトン氏の「メタバースは多様性のビオトープ VRの一般化は文化の破壊をもたらすのか」という記事も出てきた。そこで、自分も考えを記事にまとめてみようと考えた。

1.VRChatの原住民の生活や文化は、一般人によっては破壊されない。

まず結論を示すが、VRC原住民の生活や文化は一般人によって破壊されないだろう。例えばお砂糖関係とか、バ美肉とか、ボイチェンとか、女声とか、ちょっとえっちなイベントなんていうのはきっと、一般人によって駆逐されることはない。

理由は後で述べるけれども、一般人はそもそもVRChatに関心を持たないのではないかなと思うからである。

また、これはある程度確信をもっている個人的な見解であるが、VR上でアバターを用いたコミュニケーションをとる人は、それを求めている精神状況の人なのだ。つまり、東アジア系カワイイVRC原住民が行っているような、ケモ耳美少女アバターコミュニケーションを求める人なんていうのは、ごく限られた人であって、それこそトートロジーになるが、VRC原住民になるべき人しか、VRC原住民の生活や、生活圏に興味を示さないのではないかと思う。

もっとはっきり言うと、オタクの生活圏に、一般人はわざわざ足を踏み入れない(なぜならキモいから)。現実世界でも、コミケに来るのはオタクであって、一般人が来てわざわざキモいとは言わない。ましてや、インスタンス毎にコミュニティが分裂しているVRChatに関しては、多くがFriend関係に依存している以上、そもそもそこにたどり着けないし、ましてや踏み入れて批判する人はBANされるだけだろう。

万が一で気を付けるべきは、アバターコミュニケーションがポリティカルコレクトネスに反しているとか、性的搾取だとか頓珍漢な指摘をしてくる人であって、それに対しては「このコミュニティでは個々人が自由になりたい姿になる自己決定の権利を行使している」「可愛い姿は特定の人種や属性や文化が占有するものではなく、万人が享受する権利がある」などと堂々と言い返す必要があろう。

ただ、VRChatの開発者は、どうやら相当日本のオタク文化に理解があり、そういった文化的多様性を保護しようという意図があるような気がしているので、当面は問題ないのではないかと思う。そして、もしもVRChatが万が一にでも、多様性を否定するような動きになったら、その時は新たなクローンサービスが生まれるのだと思われる(というかすでにChilloutVRとかNeos VRとかが類似サービスとして存在している)。

2.VRは不便である

ここから、少々細かく私見を述べていく。

まず大前提であるが、VRCユーザでも勘違いしている人がいるのだが、VRCがイコールでVRではない。VRCはあくまでもVRも利用できる「SNS」や「メタバース」でしかない。VR技術はこれまで、産業用途、例えば設計開発や、危険予知トレーニングとか、技能の伝達とか、そういう文脈でも盛んに用いられたものであり、あくまでもツール(分野)の一種ということは忘れてはならないだろう(例えば明電舎のVRや、ソリッドレイ研究所のVRなどは有名で、数多くの企業で安全教育に使われている)。

そのうえで、最近にわかに民生用のVRが注目をあつめ、ゲームやメタバースに活用しようという動きがここ10年くらいの動きである。

しかし個人的に感じるのは、もしも本当に「一般人」がVRを欲していたら、すでにもっともっと普及しているということだ。よく言われるのはスマホやPCと同様に廉価になれば一般に広がるという言説である。しかし、PSVRは5万円未満で販売され、しかも世界で400万台も売れたにも関わらず、活用は下火である。つまり、機器が普及すればみんな使う、というのはおそらく嘘なのだ。

では、なぜスマホが普及したのかを考えれば、人間のコミュニケーションの進化の過程に起因しているある観点に察しがつく。人間はコミュニケーションを欲する動物であるが、人類の技術の進化はだいたいがコミュニケーションをどう進化しようとしていたのかに結び付いて考えることができるのだ。

文字の発明、紙の発明……電報、電話、無線、テレックス、そして、インターネット時代になっても、メール、チャット、そしてSNSと、人々はコミュニケーションを進化させ続けてきているが、その核心は「より速く」「より簡単に」である。

しかし現状「VR」はきわめて不便である。何より、わざわざ機器を起動し、視界や聴覚をジャックさせる必要がある。これでは、VRをしながらお湯を沸かしてカップラーメンを沸かして食べるとか、お風呂に入るとか、スマホをつかっていれば当然に出来た日常生活に不便をきたす。無線化しようが、スタンドアロンで起動しようが、不便なことに変わりはないだろう。

HMDを活用したVRとは何かを説明しようとすれば、極めて不便であるが、その代わりにリッチな没入感や、3D空間性を提供しているデバイスということになる。つまり、VRはその根幹において「不便」なのである。

一般人がVRを多用するかどうかは、この「不便」と「没入感・3D空間性」を天秤にかけたときに、「不便」を圧倒するだけの価値が提供できるかということになるのだ。

3.一般人はおそらくVRを欲しない

VRC原住民は今一度、非VRCユーザーのリア友や、会社の同僚の生活を考えてみてほしい。
彼らは一体なにを欲して、どのように生活しているのか?である。

それはリアルで友達に会ったり、家族や恋人と触れ合うことを大事にしているのである。

そして、VRCユーザーは一度考え直してほしいのだが、一般人はおそらく(美少女)アバターになりたいとは、そんなに思っていないだろう。

人間はそもそもにおいて動物であり、政治家が会食を重要視するように同じ釜の飯を食べたり、一緒に生身の身体性を伴って経験をすることで絆を深める傾向がある。なぜ多くの人がコロナ禍において飲み会を欲し続けたのかを考えれば火を見るよりも明らかだし、なによりVRC原住民にしたってオフ会をするひともいるように、人間は孤独を嫌うし、誰かに会いたいという気持ちが強いのである。

技術の進歩はコミュニケーションの進歩と書いたが、同様にして交通機関も進歩している。もし人間が情報伝達だけを求めているならば、人間を輸送する交通機関はここまで発達しなかっただろう。それに対して、姿かたちを変えるような技術や芸能はそこまで進化していないのである。

僕が思うに、一般人は極めて不便なVRを使って、メタバースを使ってコミュニケーションをとるくらいなら、日常的なやり取りはLINEやZOOMで済ませて、会いたいときは直接会いに行くのではないかと思うのだ。

海外にいる人は?とか、遠くにいる人は?というツッコミもあるとは思うけれども、私生活を振り返ってもらいたいのだが、遠方に住んでいるリア友でVRを使ってまで会いたいと思う人、あるいは頻繁に会いたいと思う人はどれだけいるだろうか。疎遠になっていてたまに同窓会で会う人というのは、たまに同窓会で会うくらいが適当なのだろうと思われる。そうでなければ、もっと頻繁にZOOM飲み会は行われているはずなのだから。

それでもなお、一般人がVRを使う現場というのは、「VRを使わざるを得ない場面」なのではないかと思われる。それは例えば、遠方で行われてるライブイベントのVR同時配信でリッチな体験を得たいという場合(この場合、不便さとリッチさでリッチさが勝っている)や、多人数同時会議においてブレインストーミングをしたい場合(VRの利点として音声を空間ベクトルで考えられるため、多人数が同時空間に併存して同時に複数会話をすることができる)などだろうか。

コロナ禍も明けるし、テレワークも働き方改革も進んで、人はもっと自由な生活や自由な物理的な場所で生きていくようになるだろうし、そうしてもっと生のコミュニケーションを求めるだろうと僕は思っている。

VRなんかより、リアル脱出ゲームとか、旅行とかがきっと盛んにされるだろう。

4.VRChat原住民はVRで何をしているのか

それでは、VRCに何千時間、何万時間と入り浸っている人もいるVRC原住民は何をしているのだろうか。

僕が思うに、彼らがやっているのは「異世界転生」なのだと思う。

「VR」が重要なのではなく、「なりたい姿に変身して、その変身した姿で生活し、コミュニケーション」することが重要なのだと僕は思っている。

僕は女装を長らく研究してきたし、実践してきた身であるが、姿かたちをすっかり変えることが出来るのは、キグルミとVRくらいだと思う。なので、VRはとても革新的だし、きわめてリッチなキグルミ体験と言い換えることもできると思う。


VRCユーザには、これだけ言えば全部伝わると思うのだけれど、蛇足的に考えを述べることにする。

VRChatが革新的だったのは、自分自身のアバターを自由に選ぶことができ、それをVR機器を使って身にまとうことが出来る環境を、非常に自由度の高い方法で提供したことにある。
VRCでは、アバター(やワールド)のアップロード方法などで難しさはあるものの、そのような難しさが発生する原因というのは、ほぼ無制限な完全に自由な発想でアバター(やワールド)を選択できるようにするためである。そして、これが最大のメリットでり、そのメリットのために、非エンジニアを含む大量のユーザが非常に高い技術的要求にこたえてまでプレイしているのだ。つまり、先に述べたVRは不便というのと同様で、変身するメリットのために多大な労力を掛けているといえると思う。

先にもちょっとだけ述べたが、一般人はおそらくそんなに言うほどの変身体験を求めていないと思われる。渋谷のハロウィンだって、ちょっとした仮装をするのが大多数であって、全然別の性やキャラクタになりきるのは、コスプレイヤーの世界の話なのだ。

だから、一般人は、VRC原住民のようにアバターに対して思い入れがあるとは思わないし、全然違うだれかになりきって、それこそ異世界転生のような生活をしようとはきっと思っていないのである。

冷静に考えて欲しい、あなたは一体なぜVRCをプレイしているのか。なぜそんなにのめりこんでいるのか。きっと、なりたい自分になって、異世界転生物語を楽しんではいないか?

きっともっと異世界転生を楽しみたい人はいると思う。そういう意味で、VRCはどんどん広がって欲しいし、異世界転生のチャンスをいろいろな人が試してみることはいいことだと思う。

けれども、おそらくだが、一般人の多くは異世界転生を望んでいないし、meta horizonのPVがそうであるように、もしも仮にVRメタバースを求めたとしても現実に軸足を置いた世界を求めるだろうから、VRCなんてやらないと思うのだ。つまり、きっと一般人がVRCに対して思うのは、無関心だろう。

5.VRCの文化が壊れるとしたら?

ではVRCの文化はずっと保たれ続けるのだろうか。
僕は、これが壊れるとしたら、きっとそれはVRCの内部から崩壊するのだと思う。

これは期を改めてまた書きたいと思うのだが、現在のVRCは相互扶助的なコミュニティで成立している。アバターを購入するようなこと以外については、特にイベントやサービスに対しては対価がほとんど発生していない。その代わり、あらゆるイベントでは、厳密な意味でのお客さんが存在せず、参加者が一致団結して良いものを作ろうとしているような気がする。そして、僕は、このボランティアで保たれた世界が、VRCの楽園を形作っているのだと考える。

これがいずれ、VRC内外での決済システムが進歩し、イベントや人間関係をマネタイズしようという風潮が生まれていったとしたら、きっとマネタイズの原理を中心として、VRC原住民の内側から徐々に「一般人」に変質していくのだと思う。

(※)現代の日本語では「先住民」という言葉が使われるのが常であり、あまり使われない「原住民」という言葉をあえて使っているのは、台湾の「原住民」がそうであるように、今まさにその空間で生きているというニュアンスを伝えるためである。また、本文章でのVRC原住民とは、あくまでも日本語コミュニティにて生活し、VRCでのアバター生活を当たり前に考えているような人のことを示している(VRC日本語コミュニティ原住民とか、東アジアカワイイVRC原住民という言葉が本当は正確かもしれない)。(参考 私が台湾の“先住民”を「原住民」と呼ぶ理由

文・あしやまひろこ @hiroko_tb

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